「シュテットル ポーランド・ユダヤ人の世界」 [世界史]
みすず書房、2019年3月刊。 原著は1997年刊。
著者は、アメリカのエヴァ・ホフマンさん。
1 ポーランドにおけるユダヤ人の歴史
11世紀には、ポーランドにユダヤ人共同体が存在していた。
第一回十字軍の時に発生したユダヤ人に対する迫害を逃れて移り住んだものもいる。
その頃、ポーランドの諸公は、交易と商業に熟練したユダヤ人が自分たちの国土の経済的繁栄を支えてくれると考え、ユダヤ人を歓迎した。
1264年の公的な文書では、ユダヤ人移住者について以下を定めていた。
① 生命と財産、ならびにシナゴーグと墓地の全面的な保護を保証。
② 自らの職業に従事する自由を与え、法廷での差別を禁止。
ユダヤ人は教育を重視していたが、ポーランド人は貴族を除けば文盲であった。
ユダヤ人の中には、王室や諸侯の財産の管理を任せられたものもいた。
2 宗教上の差異
ポーランド諸侯がキリスト教を受け入れたのは10世紀になってからで、遅れていた。
このため、しばらくはカトリックの厳しい規律は厳格には適用されていなかった。
こうした宗教上の規律のゆるみが、他の国々に存在した硬直した障壁なしに、ポーランド人とユダヤ人が一緒に暮らすことを可能にした。
しかし、ユダヤ人は異なる言語を話し、異教を信仰する人々であることは確かであった。
キリスト教徒にとって、本来、その信仰は絶対的なもので、異教に対しては非寛容的である。
カトリック信仰がポーランドに根を下ろし、教会の権威が増すに従い、教会の反ユダヤ主義が一般のポーランド人にも影響するようになってきた。
特に、商売の面でユダヤ人と競合する都市の住民や、物質的に豊かなユダヤ人に対するねたみを持つポーランド人貧困層は、こうした反ユダヤ主義に同調しやすかった。
3 移民の継続と繁栄
こうした反ユダヤ主義の台頭にもかかわらず、14~15世紀に至っても、ポーランド諸侯はユダヤ人の流入と国の商業の発展への参加を奨励し続けた。
ユダヤ人とポーランド諸侯などの貴族層は、お互いの利益が一致することにより結びついていた。
こうしたことから、ポーランドはユダヤ人が他の国々を追放された時に移住してくる場所であり続けた。
ユダヤ人にとって以下の要素が、商売上のプラスになった。
① 国際的な言語を身につけている。
② ユダヤ人の国際的なネットワークを利用できた。
4 ポーランドの荒廃
17世紀中頃、コサックの頭領が率いる一団が10年間にわたり、ポーランドを蹂躙した。
村や町が焼き払われ、何十万という人々が殺された。
特にユダヤ人は格好の攻撃対象で、20~25パーセントのユダヤ人が虐殺された。
ポーランド人は言われるままに、ユダヤ人を侵略者に引き渡した。
しかし、そのあとで、自分たちも一人残らず殺された。
その後、ポーランドはスウェーデン人の侵入、トルコとの戦争、ロシアの侵略などの破壊、あるいは飢饉、疫病などに苦しんだ。
こうした困難な時期に、一般のポーランド人のユダヤ人に対する態度は一層、敵対的になった。
5 ユダヤ人問題
18世紀後半、ポーランドのユダヤ人は、全人口の10パーセント、90万人に達していた。
ポーランドが国としての体裁を整える過程で、ユダヤ人をポーランド国民として取り込むことが検討され、ユダヤ人に以下のようなことが求められた。
① ポ-ランド語を使用する。
② 休日をキリスト歴に基づいたものとする。
③ ポーランド人と同じ服装とする。
しかし、ユダヤ人の聖職者は、ユダヤ人としてのアイデンティティーを喪失するような要求を呑むことはなかった。
6 その後のポーランド
ポーランドは18世紀末から第一次大戦終了時まで125年間にわたって、ロシアなど近隣諸国の植民地となってしまった。
第一次大戦後、ポーランドは独立を回復したが、1939年、ロシアとドイツにより分割占領された。
その後、ロシア占領地域のユダヤ人はシベリヤなどにある強制労働収容所に送られ、また、ドイツ占領地域のユダヤ人はアウシュビッツなどの絶滅収容所に送られた。
その際、ユダヤ人を命がけでかくまったポーランド人もいたが、ユダヤ人が隠れていることを密告するポーランド人もいるなど、様々であった。
2019-07-10 05:39
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