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「工学部ヒラノ教授の介護日誌」 [医療・健康]

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 青土社、2016年2月刊。
 著者は、今野浩さん。

 私(著者)と妻の道子は日比谷高校の同期で、22歳で学生結婚してから30年が経ったある日、それまで元気だった道子が突然、入院した。
 心室頻拍という悪性の不整脈で、外出中に倒れたのだった。
 薬の効果で2週間後に退院できた。

 しかし、さらに脊髄小脳変性症という病気にかかっていることが判明した。
 小脳が委縮して、運動機能が徐々に失われていく難病だった。
 この病気は発症後10年ほどで、嚥下機能に障害が出て、その後誤嚥性肺炎を起こして死亡することが多いという。
 道子の母も罹っていた遺伝性の病気だった。
 道子は55歳になっていた。

 病気は着実に進行し、車椅子を使うようになった。
 私は、食事の用意など家事全般と週3回の病院の送り迎えを行った。
 これを6年にわたり続けた。

 2000年の春、娘が体調不良で勤めを辞めることになった。
 脊髄小脳変性症が発病したのだった。
 病気が子供に遺伝する確率は2分の1だった。
 
 2002年、62歳になった妻の心臓が異常をきたし、入院することになった。
 心臓にカテーテルを差し込み、電気火花で患部を焼き切る手術を受けた。
 
 妻は要介護度2の認定を受け、毎週ヘルパーさんに来てもらうようになった。
 この頃はまだ普通に言葉を話せたし、食事も自分でとれた。
 夜間のトイレ介助は1回で済んだ。

 2004年2月、娘の住んでいる市役所の障害福祉課から、娘が夫から家庭内暴力を受けているようだとの連絡があった。
 直ぐに娘の家に行き、病院に入院させた。
 もう夫のもとに返すわけにはいかないので、退院後、障害者介護施設に受け入れてもらった。
 娘は間もなく離婚した。

 2006年はじめ、妻は要介護度3の認定を受けた。
 その頃、1週当たり40時間ほどを妻の介護に費やした。
 また、娘のいる施設へも2週間に1回、行っていた。

 妻は寝返りが打てなくなり、また、言葉も不明瞭になってきた。
 読書もできないようになったので、雑誌や小説を朗読して聞かせた。

 睡眠障害が出て、悪夢にうなされて一晩中泣き叫ぶこともあった。
 泣き止ませようとして身体を揺すっても目を覚まさない。
 深夜に何回もこれに付き合わされると、介護する側もおかしくなる。
 なんとかして泣き止ませようとしてきつく叩くと、妻は目を開き「ひどい、ひどい」と泣き叫んだ。

 2007年になり、車椅子から転げ落ちて腰椎陥没を引き起こした。
 夜中に痛みで絶叫するので、口をふさいだり、頬を手のひらでたたいたりしてしまった。
 こんなことをしていたら、いずれ妻の首を絞めるかもしれない。

 止む無く妻を介護施設に入れることにした。
 妻もそれを希望した。
 要介護度は4になっていた。

 しかし、夜泣きをするので、受け入れしてくれる介護施設を見つけるのは容易ではない。
 幸い勤務先に近いところの介護施設が、私も一緒に入居することを条件に、受け入れてくれることになった。

 その年の暮れ、私は大腸憩室という病気で、お尻から大量出血をした。
 即入院となった。
 老化した大腸壁にできたくぼみが破れて、血管が切れたのだった。
 15日目に退院することができた。

 妻は、2009年には寝たきりになり、要介護度は5になった。
 病気は着実に進行していた。

 2010年3月、嚥下機能の衰えた妻は重症の誤嚥性肺炎に罹った。
 熱は39度を超えた。
 気管切開手術を受けることになった。
 妻は日ごろから延命治療は受けたくないと言っていたが、肺炎が回復すれば、管を取り外すことも可能という医師の話があったので決断した。

 退院後、痰の吸引をしてもらえる介護施設に移った。
 気管を切開すると痰の吸引は不可欠で、その作業は本人に対しても苦痛を強いるものだった。
 こののち、気管に差し込まれた管を取り外すことにはならなかった。
 気管切開手術を受けたのは正しい選択だったのだろうか。
 肺炎の症状は断続的に続いた。

 2011年4月、妻の心臓が突然止まった。
 医師は、人工呼吸器をつければ生き続けることができると言った。
 しかし、植物状態になって生き続けるよりも、ここで逝かせてやる方がいいと思い、断った。
 
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